AI の(星)

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この本のタイトルはもともと掲載していたときのタイトルとちがっていて、「わが子をAI の奴隷にしないために」に変えた方が多く売れるという方針でそうしたのだろうが、AI に不安を抱く人たちに読んでもらえるなら「不安を煽って売ろうとしている」という批判も辞さない、という戦略は間違っていないとわたしは思う。
著者は一癖も二癖もありそうな竹内氏だが、そのある種の人間臭さは心を持たないAI の苦手とするところに違いない。
どの道21世紀はAI と歩かなければならない。ネオ・ラッダイト運動という選択肢はないし、AI に座を譲るという選択肢も(当面は)ないだろう。
AI に心を持たせることで起こりうる究極のシンギュラリティを到来させてはならない、あくまで外部脳としてAI を活用するのが望ましいと著者は言う。
けれどその先のことは誰もわからない。
「人間」とは何か、という問いに「実践的に」答えられない者はAI の優位性に浸食され続けるだろう。
逆手に取れば、人らしく生き直すチャンスの到来でもあるかもしれないが、その一方でこうも思う。
御釈迦様の掌がAI の掌にならない事を望みつつも、最適化を旨とするAI こそが人類を支配下に置いたのちの地球環境を最適化する理想の救世主なのかもしれない、と。

「ネオ・ラッダイト」
Wikipediaより

現代文明において、ITなどのハイテクの進化と台頭によって、個人の雇用機会が次第に奪われていくのではないかと懸念し、それらの開発を阻止し、利用を控えようという考え方がある。これはかつてのラッダイト運動になぞらえ、ネオ・ラッダイトと呼ばれている。

ビル・クリントン大統領の政権で労働長官を努めたロバート・ライシュは自著『勝者の代償』[6]のなかで、情報技術の恩恵などにより個人が消費者として充実するほどに、逆に生産者・労働者としては不安定になる反比例的な問題点がニューエコノミー型経済には存在すると指摘。頻繁なコスト削減・付加価値付与・技術革新などの連続するニューエコノミー型経済は、所得や雇用機会の格差による少数の勝者と多数の敗者を鮮明化しその二層化と敗者固定化を深め、かつ身分・資産・サービスなどが固定化されたオールドエコノミー型経済社会と異なり、その勝利(雇用機会や所得の確保)を一時的とせず維持するために、個人生活をさらに犠牲にして長時間低賃金の所得デフレ進行を受入れつつ働かねばならない中で、家庭やコミュニティが次第におざなりとなりついにはそれらさえも商業的価値観に基づいて外注化され選択されるようになる…この一連の流れをライシュは『勝者の代償』と呼んだ。

その上で、こうしたニューエコノミーの矛盾に対して、三つの選択肢を提示し、

社会的副作用を生み出している技術革新や市場経済化を止める(=ネオ・ラッダイト運動)
現在進行している変化を行くところまで行かせる
両者のバランスを取る。
ライシュ自身は3.の方向性、バランシング・マッチング努力へ向かうべきとした。詳しくは技術的特異点を参照のこと。