メシと珈琲と煙草

f:id:force44word:20200516132316j:image

 

森敦の「酩酊船」を枕もとで読んでいる。これなどは寝煙草のようなものだ。火事にはならないが夢の中で煙に巻かれそうだ。
もっとも今更その煙で迷いはしないけれど、船自体はボロボロだ。
食事というものが、一杯の珈琲、お茶、あるいは一服の煙草によってはじめて「人生の時間」になるとするなら、小説がその珈琲や煙草ということになるのかもしれない。
飯やお菜にも味わいや愉しみがあるとは言え、小説を知る舌がなければやはりただのメシになるまでだ。文学と別れたあとのフーコーもその舌で読まなければただのメシになるだろう。まぁ、メシはメシでいいのだが。
という訳で、すでに次の本も決まっている。珈琲の後の煙草だ。