読むということ

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評論とか批評とか呼ばれたりもする書物を一行や数分で語ってみせることはたやすいことだし、その要約を読んだり聴いたりしてそれを自分の糧にすることも可能だ。一冊すべて一語一句すべてを読まずともエッセンスを得ることが可能なのだ。
早い話、読まずともまぁ読んだことになるのである。
小説なら梗概、あらすじというものもある。これでもって読んでもいないのに読んだふりも出来なくはないが、もちろん読んだことにはならない。一語一句がすべてだからである。
だからその小説を人にすすめるときも「読んでみるといいかも」としか言えない。要約や梗概でその作品の「素晴らしさ」を伝えようなどもってのほかである。それは愛人を二束三文で妓楼に売るにひとしい。

その序文でボルヘスは「バートルビー」を的確に語ってみせる。けれどわたしたちはそれを読んで「しまった!」と思わないし憤慨したりもしない。なぜならまだ「読んでいない」からである。同じ作品を何度でも読むのも同じ理由による。
妻の作るオムライスをいつも美味しいと思うようなものだろうか?