石ころ

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コロナウイルスのことに本当は興味も関心もない。恐れも不安もまるで他人の気持ちを見るような間接的なものだ。
死と苦痛と苦境と悲しみだけが石ころのように目の前に転がってくる。あとのことは全て解釈でしかない。「科学」や「数字」を用いれば客観的に把握できて、それでもって全部を現実的に解決していけるというのは、全てが嘘ではないがかなり嘘を含んでいる。そして、それでいいのである。
「人間は、同時に治療したり、わかったりはできないんですからね。それなら、できるだけ早く治療するってことですよ。このほうが急を要することです」(「ペスト」宮崎嶺雄訳)

だから、と言うべきか、コロナウイルスよりインフルエンザの方がどうだこうだという言説は本当はどうでもいい瑣末的なことで、どうでもよくないのは、この事態を人間という存在のあり様としてみる視線の欠如なのだが、確かにそういう視線は一歩引かないと持ち得ぬものだろうから渦中にいる者はどんなに間違っていてもある意味「正しさ」を主張できる。
「実態以上に反応しすぎだ」と、冷静なスタンスの者は言うが、情報グローバリズムと金融資本主義が世界の隅から隅まで行き渡ったこの世界で、実態以上に反応しないこと=実態そのままに反応することなどひとつもないことに何故気が付かないのだろうか?
今や実態以上に反応するのがスタンダードなのであって、それがスタンダードにならざるを得ないのは、「全員」で「これ」と言えるような、一つの「実態」を大多数の人間で共有することが不可能な世界になっているからだ。
そもそも唯一の実態などというものは鼻っからないのだが、それでも以前はコモンセンスが存在して、みんなして「これがそれなんだね」と言える磁場が存在した。共同体というものだ。
様々な分野での「共有」機能が、社会的、個人的コミュニケーションにとって、より不可欠なものになっているのは、もはや自然発生的ににも人為的にも「共有」が成立しなくなって久しいからであり、また、それを再構築するのも、技術を介して構築する方が手っ取り早いからなのだと思う。当然そうして生まれる共有は擬似的で仮想的なものだ。だからネットの世界もまた現実なのであって、今や境界線はないと言っていい。ゆえに「ネット情報」を現実や実態を見誤らせるものと捉えるのは基本的にはそれ自体見誤りなのだが、そう呟きたくなる気持ちはとてもよくわかる。誰も括弧付きの現実から括弧を取りたい。「真実」が欲しいのだ。

大きな物語」の失われた世界では無数のバリエーションの物語があって、その数だけの共有があり、その中に括弧付きの実態がある。多数の鏡に映る世界なのだ。
そのことを理解すれば今回の事態の総体も俯瞰できるだろう。
もちろんそれを俯瞰するのは一歩引いた者の視線である。だからそんな者を今は誰も相手にしない。

死と苦痛と苦境と悲しみだけが目の前に転がってくるが、それが「石ころ」なのは、ひとつには厳然とした動かし難い事実という意味であり、もうひとつには所詮他人事でしかないという意味なのだが、それではいけないのだろうか?
苦しみの末に死んでいく者を前にしていない者、近親者を失っていない者に、死はそうやすやすと近づいてはくれないような気がする。
わたしは、他人が被る死、苦痛、苦境の原因に憤ることは出来るが、その人の気持ちに自分の気持ちを重ねることが出来るという自信がない。ひとはそれを本当に出来ているのだろうか?

今困った者同士が手を取り合って苦境を乗り越えようという様々な取り組みが広がっている。自分のできる範囲でコミットしているが、そうした「新しい島」は大陸になることはなく、情報グローバリズムと金融資本主義が席巻する海で浸食し続けるだろう。
無数の「島」のネットワークがリゾームとなって海を越えてやがて海を覆い尽くす。そんな希望的イメージを描くには世界の状況は余りにもよくないとわたしは思う。

もはやカミュが「ペスト」を書いた時代ではないのだろう。それでも「ペスト」は読むに値する。読まなければいけない書物だと思う。