そのひとの手の翳しようで

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音のかたちについて語るのは難しい。なぜなら、その「かたち」は、輪郭線を引いてしまうとその途端消え失せてしまうからだ。
触れることのできない「かたち」、それは硬度とやわらかさ、密度と拡散のせめぎ合いのなかにあって、確かに視えるのだ。澄んだ水のなかのガラスの器のように、そのひとの手の翳しようで視えるときもあれば視えないときもある、そしてそれは、すぐそこにあるような近さで揺らめき耀きながらも、手の届かないはるか彼方にあるのだ。
Clara Haskilの音はそういう音だ。いくつものモーツァルトヘブラーの音には危うさがなさすぎるだろう。リリー・クラウスの音は輪郭線ばかりが気になる。ラ・ローチャの音はたゆたいに溢れかえっていてうるさく、ピリスの音は粒があまりに立ちすぎる。
最も活動できたであろう時期を病気で棒にふり、奇跡的な名演にもかかわらずそれほど録音にめぐまれなかったが、それでも、わたし(たち)は彼女のことを不運なピアニストとは思わないだろう。なぜといって、彼女だけが触れえぬ音に触れることができたのだから。猫を胸に抱くHaskilはまるでモーツァルトを抱いているようではないか。