その綻びから「裸体」が

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砂漠とは裸体にほかならない。メタファーという薄衣を剥ぎ取られた言葉が「意味もなく」堆積する、「彼方」すらない地平だ。
そして砂漠とは死にほかならない。にもかかわらず、わたし(たち)はそこで生きたいのだ。なぜならそこには自由しか存在しないのだから。とはいえわたし(たち)は死において生きることはできない。だから、わたし(たち)はそこを緑化してしまうのだ。
たしかに真に裸になることは恐ろしいことだ。けれどもさらに恐ろしいのは、「そこ」へと身を投げ入れてしまいたいという欲望を零にすることができないということだ。恐れ、魅かれ、恐れ・・・そこでわたし(たち)は見て見ぬ振りをすることを思いつく。そして多くの者がまんまとそれをし通して息を引きとる。破綻のない一生。
しかし、どんなものにも「綻び」はある。その綻びから「裸体」が招くのだ。裂け目からのぞく肌、薄衣のむこうに仄めく曲線・・・
それを見入る者は実は視られているのだ。その肌に、その曲線に。魅入られるとはそういうことだろう。死において生きたいと熱望する者はいつも魅入られる者だ。
だからというべきか、わたし(たち)は、薄衣や綻び、裂け目を好む者と、裸体/着衣という一対の概念を好む者とに分かれる。(いうまでもなく後者の「裸体」は「着衣」によって相対化された「裸体」であって、真の裸ではない。つまり、見て見ぬ振りをするわけだ。)

ゴヤが裸体/着衣のマハを描いたのは当然だろう。だが裸体/着衣のヴィーナスを描いたボッティチェリ、ティチアーノは実は「裸体/着衣」の側の人ではないような気がわたしにはするのだ。たしかにふたりとも裸体のヴィーナスは「世俗のヴィーナス」、着衣のヴィーナスは「聖マリア」という宗教的な文脈に従ってはいる。けれども、「春」の三美神の薄衣の様はどうだ。かえって裸体を感じてしまうのはわたしだけではないだろう。そしてそこから視線を転じてヴィーナスをみれば裸しかみえない。
もっともこの三美神はもともと裸体の女神であったのだから、そこでもボッティチェリは文脈に則って描いているだけかもしれない。だとしたら、わたしはボッティチェリをわたしの側に引き寄せたがっているだけなのだろうか。まあ、それならそれでいいだろう。
けれども、ティチアーノはちがうのだ。

Primavera
c. 1482
Tempera on panel, 203 x 314 cm
Galleria degli Uffizi, Florence

Sacred and Profane Love
1514
Oil on canvas, 118 x 279 cm
Galleria Borghese, Rome