あるいは絵画をめぐる視線の共犯関係

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片方の掌は手袋により隠されている。そしてもう一方の掌は、視る者の視線を引寄せんばかりの姿態で露呈されている。裸体の掌。たしかに掌は隠されていることよりも露わになっていることの方が普通だろうし、こうしたポーズがおそらく当時の肖像画の一類型であったろうことを考えると、「裸体の掌」というのは穿った見かたに過ぎないかもしれない。そう、掌はごくあたりまえのようにカンバスに収まっている。けれど、「見入る」者の眼は、そこに微かな違和を嗅ぎつけるのだ。あたかも着衣のなかに収まった裸体を透視する侵犯者のように。(侵犯する/される者はつねに違和=罠に敏感だ。)
すぐれた画家は「掌」をお座なりには描かない。いやそれどころか顔と同じくらいの神経と情熱をそそいでいるはずだ。例えばウェイデンのように。だからティチアーノもその一例にすぎないと言ってしまえばそれまでだが。
それでもわたしはその掌に見入ってしまう。特に下の作品などは男の顔よりもあきらかに掌の方がわたしの視線を引きよせる。ティチアーノは巧妙な罠の名手なのだ。
それが罠であると知りつつそこに誘きよせられそれに囚われてしまうということ。あるいはみずから囚われようとする、「侵犯」という境界線上を一匹の視線と化し徘徊すること。あるいは絵画をめぐる視線の共犯関係。おそらく、絵を視るということはつねに侵すことであり侵されることなのだろう。

上から
Man with Gloves
1523-24
Oil on canvas, 100 x 89 cm
Musée du Louvre, Paris

Portrait of Count Antonio Porcia
c. 1548
Oil on canvas, 105 x 90 cm
Pinacoteca di Brera, Milan

Portrait Diptych of Philippe de Croy (left wing)
c. 1460
Oil on oak panel, 49 x 31 cm
Henry E. Huntington Library, San Marino