山蟻

 その時、玄関へ、だれか来た様な気がした。私は、直ぐに玄関に行き、途途ほうと溜め息をついた。玄関には何人も居ない。だれか来て帰つた後の様な気がする。その為に、あたりが非常に淋しくて、そこに起つてゐられない。私はすぐに奥の座敷へ戻つた。さうして、山東京傳の顔を見た。山東京傳は大きな顔で、髯も何もない。睫がみんな抜けてしまつて、眶の赤くなつた目茶茶である。私は、その顔を見て、俄に心の底が暖かくなつた。
「誰もまゐつたのではありません」と私が云つた。


『冥途・旅順入場式』内田百閒、(旺文社文庫)より