ゆらゆら帝国のボレロ

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言葉は反復されるものに過ぎない。わたしが誰にも置き換えることのできないわたしであると同時に誰とでも交換可能なわたしであるように、わたしの記すどんな言葉もすでにある言葉の繰り返しにほかならず、あるいはこれからあるであろう言葉を先取りした反復にほかならない。
だから、こうして記されるわたしの言葉も、これまでわたしが見聞きした無数の言葉、たとえばこのところ「引用」してきた書物のなかの言葉、そうした言葉の地層を透視する光がつくり出す「影」のようなものでしかない。このことは単に「事実」であって、それ以上でもそれ以下でもなく、よってわたしはこの事実に悲観してもいないし反復にすぎない自分の言葉を卑下したりもしていない。
このところの「引用」の繰り返しは、コメントもできなくしていたし注釈めいた言表も排していたのでまったくと言っていいほど「とりつく島も無い」ものだったはずだが、わたし自身の言葉がそうした書物の紙のうえの言葉の、謂わば「変奏」である以上、「引用文」も「わたしの言葉」も実は同じものなのだ。(違いがあるとしたら、その品質だろう。)
変奏と反復、それはフーガの技法そのものだが、バッハとともにわたしたちはラヴェルの名前も思い出すかもしれない。そう、「ボレロ」だ。わたしはクリュイタンスの「ボレロ」が好きだけれど、つい最近ちょっと変わった「ボレロ」を発見した、というより体験した。
ゆらゆら帝国ボレロ」。彼らの新しいCD『空洞です』をきいていて「これってミニマル入ってない?」って感じたが、「あえて抵抗しない」「学校へ行ってきます」「3×3×3」とかをライヴできいて「やっぱり・・・」と思った。これってこじつけ?そう、得意のコジツケでした。そして、ゆらゆらのライヴはまさしくロックであり非-ロックでした。