継ぎはぎの見本?

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最近バタイユクロソウスキーについてほんのすこし触れたりしているけれど、この二人は既存の権威に異を唱える異分子、たとえばキリスト教に対して批判の槍をともに投げつける盟友であった。しかし、その槍の投げ方が異なっており、「方法」のちがいはそのまま彼らのエロスのちがいにも表れているように思う。ともあれ、バタイユの「異質なもの」「呪われた部分」は表があっての裏であり、その意味で裏に照明を当てることは表を維持することに繋がってしまいかねず、その意味でもクロソウスキーの「複数性」はそうした陥穽から逃れ得るだけのしなやかさを有していたといってよいだろう。
バタイユクロソウスキーのことについてはいづれ話すとして、この二人の作品は電車のなかで読むにはカバーの必要な題名のものもすくなくないが、その点ロラン・バルトの著作はなんら恥入ることなく公衆の面前で読むことができるので大変助かったりする。いや話がずれた。わたしはバタイユクロソウスキーも好きだし、すこしはその思考方法を見習いたいと思っているのだが、けれど、「好き」なのはバルトだ。バルトを読むとなにより視線が歓ぶのだ。そう、映画や絵画をみるのと同じように。詩を読んだり歌を詠んだりするのと同じように。
今となってはバルトの思考には限界があると思われるし、その端麗な解釈は矛盾を矛盾のままに語るには繊細すぎる。それでもわたしは彼の匂いが好きなのだ。
話は唐突にかわるが、バルトを好きな音楽に喩えるなら何になるだろう。たぶんラヴェルになりそうだ。バルト、ラヴェルロイスダールヘンリー・ジェイムズブライアン・イーノ、レーモン・ルーセルルノワール、モォツァルト、クラナッハ、バッハ、etc。わたしのヨーロッパ中心主義、知性派偏重はハンパではないからバルトの匂いなんてチョー好みに決まっている。で、バルトがラヴェルならさしづめバタイユクロソウスキーはパンクなのかもしれない。いいなぁ、バタイユクロソウスキーのパンクバンド・・・だんだん話がルーズになってきた。
話がスライドしたついでに。最近やたらとストラングラーズが気になっていてHMVやヤフーで彼らのアルバムを調べては視聴したりしている。高校生のときに録音して何度かきいただけなのに今も耳にのこっているいくつかの曲。もうデータの行方もわからない。今月買おうかと思っている。そう言えばストラングラーズもやっぱりインテリジェンスなバンドだし、トーキングヘッズもそうだし、自分はたいしてインテリジェンスなんかないくせに、やっぱり「このへん」が好きなのはどうしようもない。まあ、ヨーロッパ中心主義、知性派偏重のくせにパンクが好きということならストラングラーズやトーキングヘッズ好きというのも妥当なところではあるだろう。あ、もちろんあまり知性派とは言えない(失礼!)イギーも大好きだしトム・ウェイツもお気に入りだけどね。とどのつまり「魂」があればいいわけで魂のないふやけたパンク風には知性も肉体も似合わないってことだ。
どうにもまとまらない話になってしまった。やはり寸暇を縫うようにして書くのはよくないということだ。継ぎはぎの見本にもならない。