肌、骨、あるいは

スペインの文化、たとえば闘牛というスペクタクルにバタイユが嗅ぎとった匂いとは正反対の薫りをバルトは摘みとる。




 そして最終幕となる。牛のほうがまだ強い。しかし、牛が死を迎えるのは間違いない…。闘牛が人間に示すのは、なぜ人間のほうが優れているのかである。

 第一に、人間の勇気は自覚的だからである。それは恐怖の自覚であり、恐怖は思いのままに受け入れられたり、乗り越えられたりする。

 第二の人間の優位は、その知識だ。牛は人間のことを知らないが、人間は牛のことを知っており、牛の動きやその限界を予想する。つまり人間は、自分が選んだ場所へと相手を誘導することができるのである。たとえその場所が危険であろうとも、そのことを人間は知っており、それは望むところなのだ。

 さらに、闘牛士の仕事のなかには様式というものがある。様式とは何か?困難な行為を優雅な身振りに仕立て、宿命のなかにリズムを導入することだ。それは、乱れることなく勇敢に振舞うことであり、必然的なものに自由の相貌を与えることだ。

 勇気、知識、美。これらこそ、人間が動物の力に対置するものであり、人間の証明なのだ。牛の死はその証明の代償である。 

 したがって、花やプレゼントを投げつけながら-それを勝者は優美に投げ返すのだが-、群集が勝者において称えるのは、人間の動物に対する勝利ではない。というのも、牛は常に負けるのだから。群集が称えるのは、無知、恐怖、必然に対する人間の勝利である。人間は自らの勝利をスペクタクルする。その勝利が、彼を眺め、彼のなかに自分の姿を見出すすべてのひとのものとなるように。

『スポーツと人間』ロラン・バルト/桑田光平訳「文學界」第六十巻第一号より


 


 言うまでもないことだが、バルトは人間至上主義を称揚しているわけではない。けれども、彼の優美であるだろう指先が握るペンの先から染み出るインクはあきらかにヨーロッパの知の薫りがする。人間-理性中心のギリシャ・ローマを源流とするフォルムと精神両面の均整を良しとする文化の薫りが。けっして野蛮ではない、人間の理知の端正な影が。ただ彼のばあい、通常硬質であることの多いその影の手触りがエロティックなまでに柔かいのだ。そしてその柔らかさこそがバルト自身の薫りでもあるだろう。ところでそのヨーロッパの知の薫りは、バタイユが自らの精神から追放しようと終生格闘したものでもある。このふたりともにわたしは愛してやまないが、どちらかひとりと言われたら、さてどちらをとるだろうか。きっと、肌はバルトを、骨はバタイユをもとめるだろう。ではクロソウスキーを欲しているのはわたしのどこだ。たぶんそれは名付けることのできないどこかだろう。もっとも三人ともわたしなんぞには目もくれないだろうが。