鏡の山の峰に澄み、

(中略)さていうことには、
「水の神のみことのりじゃ。老僧かねて放生の功徳を積み、今江に入って魚のあそびをねがう。かりに金鯉の服をさずけて魚の国のたのしみをさせようぞ。ただ餌のにおいに迷って、釣の糸にかかり、あったら身をほろぼすなよ。」
 そういいわたして、すがたは見えなくなった。不思議なことかなと、おのれの身をかえりみれば、いつのまにか金光ぴかぴかと鱗を生じて、ひとつの鯉魚とは化していた。それをあやしくもおもわずに、尾をふり鰭をうごかして、こころのままに湖水をめぐる。まず長良の山おろし、立つ浪に身をのせて、志賀の入江の汀にあそべば、かちで行きかうひとびとの、裳すそをぬらすけしきにびっくり。比良の高山の影うつる水底ふかくもぐろうとすれど、堅田の漁火のかくれなく、きらめく方にさそわれるのも魚ごころか。真夜中の水のおもてにやどる月は、鏡の山の峰に澄み、湊湊にかげる隈もなくてあざやか。沖の島山、竹生島、波にゆらぐ朱塗の垣には目もくらむ。伊吹の山風吹きおちて、朝妻船も漕ぎ出れば、葦間にねむる夢をさまされ、矢橋の渡にかかっては、船頭の棹おそるべく、瀬田の橋にちかづくと、そこの橋守にいくたびか追われた。


「夢応の鯉魚」 石川淳 『新釈雨月物語』(ちくま文庫)より