「玄関を入るとタタキになっていて、上がると四帖半のタタミ、右手に応接間の扉、その前を過ぎると廊下が奥のほうへ続いていて・・・・・」
「僕はこれから君の電話のところまで行こうとしてるわけじゃないんだよ。ただ電話がどこにあるか、それだけを言ってくれればいいんだ」
 そうは言ったものの、考えてみれば、家の内のことを知らない人間に、電話のありかをほんとうに教えようとすれば、そんな説明のしかたしかない。省略を知らない杳子を彼は哀しく思った。杳子は黙り込んだ。「たとえば階段の前とか・・・・・」と彼は助け舟を出した。すると杳子はまたいきいきと喋り出した。


古井由吉『杳子・妻隠』(新潮文庫)より