待つということ

八蔵 何の話してるだ。
船長 五助を喰べる話だ。
八蔵 ……やっぱ、その話か。早く海へ流さねえからいけねえだ。
西川 八蔵、おめえ、こったら話聴いても驚かねえのか。
八蔵 ……驚きてえんだが驚けねえのさ。なぜ驚けねえのかと、不思議でたまんねえけど驚けね
   えだ。
西川 八蔵、うんじゃ、おめえも喰うつうこと考えてだか。
八蔵 考えたというほどのものでめえべさ。ただ、頭にうかんだだ。そもそも頭にうかぶのが、
   よくねえだよ。一度頭にうかんだら、なかなか消えねえだからな。早く海へ流すべえ。そうし
   るほかねえだ。
船長 海へは流させねえぞ。
八蔵 五助の葬式はやらなくても、いいだか。
船長 葬式はいつでもできる。それよか、おめえたちが、どう腹を決めるかが問題だ。
八蔵 喰べちまう葬式ってえのは、あっかなあ。
船長 流しちまったら、しめいだぞ。流すまえに、みんなしてよく考えるだ。
八蔵 考えたら、どうしたって、話がそこへ行くだよ。食べることしか考えてねえのに、喰い物
   になるのは五助しかねえだからよ。うんだから、考えのもとになるもんを、なくすより仕方ね
   えだ。
船長 八蔵、おめえほんとに、あれを喰いたくはねえのか。
八蔵 ……おら、五助さ喰いたくはねえ。うんだが、あの肉はときどき喰いたくなるのだ。
西川 船長、早く流すべえ。
船長 流すことは、俺が許さねえぞ。俺は船長として、言うんだ。船長として、おめえたちのこ
   とを考えて言ってるんだ。な。おらたちは、人喰人種じゃねえ。まっとうな日本人だ。仲間の
   肉を喰いたくねえのは、人情だ。うんだから、その人情さ、どこまで守れるか、やってみたら
   いいだ。どこまで守れるか、待ってみたらいいだ。
八蔵 待ったら、うまくねえだ。待つのはよくねえだ。


武田泰淳ひかりごけ」(「ひかりごけ・海肌の匂い」新潮文庫)より