三島由紀夫の季節

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高二だったのではないか、理由は忘れたけれど三島由紀夫にハマっていた。
陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地にて自決(割腹)したのが1975年11月25日だから、それが遅くれてのきっかけだったのかもしれない。(1970年の誤りでした。そのときは小学4年生だから三島事件がきっかけではなさそうだ。)
背表紙が本革で金の押し文字が刻印された函入の三島由紀夫全集をレコードを我慢して6冊買ったのは文庫本では戯曲が出ていなかったからだが、学生のときに金に困って古本屋に売ってしまって手元にはない。あるのは文庫が数冊のみだけれど、とても好きだった「沈める瀧」がないのが解せない。
三島の文で知って、文庫本で手に入るラディゲやワイルドを読んだりして、たぶんダリに傾倒したのも彼の影響だったのではないかと思う。

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彼の「文章読本」も高校のときに読んだ中公文庫版は手元にないが、この単行本の装丁、いかにも三島由紀夫らしい。

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この朝日新聞のコラムで挙げられていることは小説を好む者にとっては取り立てて目新しい意見ではないけれど、三島が語ると磁器を手にしたときの硬度と密度を感じるのは彼の世界の構築性からして当然だ。
ノーベル賞をもらっても誰も文句は言わないだろう。
「愛の渇き」が二冊(奥付が昭和50年と昭和60年)あるのは「沈める瀧」と同じくらい好きだったからで、持っていた本が手元になかったときに買って読んだのだろう。

 

厨の前の四本の大きな椎の枝に縄が張られ、洗濯物はその縦横に張られた麻縄を隈なく占領して、栗林のなかを吹き抜けてくる西風にはためいている。繋がれたマギは頭上にひるがえるこの白い影の戯れに、何度も居ずまいを直しては、また思い出したように断続的に吼えた。悦子は干し了って洗濯物のあいだを見てまわった。すると吹きつのって来た風が、まだ濡れている白い前掛を、彼女の頬にいきなり張りつけた。このさわやかな平手打ちは悦子の頬をほてらせた。
 三郎はどこにいるのであろう?


『愛の渇き』 三島由紀夫 (新潮文庫)より

 


そんな自分なのだが、実を言うと「金閣寺」が未だにわからない。今読んだらどうだろう。駄目か。