ありながらにして消えるものたち

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「サイエンス・マスターズ 全22巻」など、自然科学に限らず、様ざまな分野の書籍を真面目にだしていた草思社民事再生申し立てをしたようだ。(わたしの好みではないが「声に出して読みたい日本語」や「間違いだらけのクルマ選び」などのベストセラーのこの出版社。)もちろんすぐに会社がなくなるというわけではないのだが、「サイエンス・マスターズ 全22巻」は結局14巻しか手に入っていない(第5巻は欠巻のまま。)ので、まずはこれが完結するまでは頑張ってもらいたい。そう言えば第1巻の「遺伝子の川」は人に貸したまま返ってきていない。
この出版社、スタンスが中途半端なのがいけないのだと思う。硬なら硬、軟なら軟、両方やるなら猶のことはっきりとメリハリをつけた企画が必要だろう。もちろんリブロポートのように偏向しすぎると消滅の途を辿ることになるが。しかし、草思社民事再生申し立てをせざるを得なかった一番の要因はいわゆる「活字離れ」にあると思う。いや「活字離れ」どころか「文化」そのものからの遊離にあるといってもいいかもしれない。
そう、今や文化を必要としない未体験の時代が到来しているのだ。ひとは、いつの時代にもあったものは当然これからも存続していくという根拠のない安心感のなかに生きることの好きな生物だ。しかし、そういうタイプではなく、かなり懐疑的な者ですら、さすがに「文化」が消失する時代が来るとは考えたりしないだろう。「いや、今でもちゃんと文化はあるよ。オーバーに考えすぎだよ。」と多くの人は言うかもしれない。けれど、消失するものはつねに「ありながらにして消える」のだ。ありていに言えば「気づいたときはもう遅い」ということだ。
もちろん、わたしは「文化」を宝のように大切にしようなんて思ってはいない。ある意味わたしはいわゆる「文化」なんて好きではない。わたしが好きなのは「思考」と「感受」とそれをかたちにすることだ。それでもわたしが「文化」云々についてこうして口にするのは、文化を必要としなくなる社会は短絡的で軽薄で冷淡な社会にしかならないように思えるからだ。それは、単純で軽やかで冷静な社会と似て非なる貧相な社会だ。いや実際そういう社会になりつつある。
まあ、そんなことは今の「社会」に言わせれば要らぬお世話だろうし、わたしだって今の「社会」にお世話なんかしたくもない。社会がどんなみじめな死に方をしようとわたしの知ったことではない。また、死んでいく社会と一緒に死ぬことを拒んで自分だけ高潔に生きようなんて思ってもいない。社会が死ぬのなら共に死ぬだけだ。ただ「お前とおんなじ顔をして死にたくはないなあ」と、それだけだ。
ではどんな顔をして死んでみようか。のっぺらぼう?へのへのもへじ?それとも遺伝子の抜け殻?今度の連休はそれを考えてみよう。