オアズの流れを

10月に「後期韻文詩」というタイトルで引用した粟津則雄訳のランボオの詩は「地獄の季節」でわずかにかたちを変える。その詩を小林秀雄がみずからの訳で「ランボオ」という文の終りに載せていたのをすっかり忘れていた。それはそうだろう。「ランボオ」というこの黄金の文章をわたしは17歳のときに目を通したっきり一度も読み返していなかったのだから。おそらくそのときのわたしはほとんどその詩をわかっていなかった。では今はどうか。ランボオという人物が「詩人」ではなく、さらに「なにもの」でもなく、ポエジイという名の一陣の風であることくらいは感じるようになったかもしれない。まあ、前置きはこれくらいにして彼の訳した「錯乱Ⅱ」を記しておきたい。



鳥の群れ、羊の群れ、村の女達から遠く来て、
はしばみの若木の森に取りまかれ、
午後、生まぬるい緑の霞に籠められて、
ヒスイの生えたこの荒地に膝をつき、俺は何を飲んだのか。

この稚いオアズの流れを前にして、俺に何が飲めただらう。
楡の梢に声もなく、芝草は花もつけず、空は雲に覆はれた。
この黄色い瓢に口つけて、さゝやかな棲家を遠く愛しみ、
俺に何が飲めただらう。あゝ、ただ何やらやりきれぬ金色の酒。

俺は、剥げちよろけた旅籠屋の看板となつた、
驟雨が来て空を過ぎた。
日は暮れて、森の水は清らかな砂上に消えた。
「神」の風は、氷塊をちぎりちぎつては、泥地にうつちやつた。

泣き乍ら、俺は黄金を見たが、飲む術はなかつた。

(「地獄の季節」錯乱Ⅱ 言葉の錬金術


「文芸読本 ランボー河出書房新社より