ほんとうのことを話そうか

イメージ 1

相変わらず「偽装」で騒がしい世の中だが、本当は「偽り」そのものが問題ではなくて、「偽りだ。」と告発する側の座標軸そのものがずれていることが問題なのだ。が、まあいいだろう。
小学生のとき、たまたまテレビのスイッチをいれたら「羅生門」を放映していた。映画を見終わったときの驚きをわたしはいまだに忘れられない。それまで子どものわたしは「事実は幾通りもあるが真実はひとつしかないものだ。」と漠然とではあるがそう感じていた。もちろんそんなはっきりとした言葉としてではないがまわりの空気を当たり前に吸うようにその感覚のなかに棲んでいたわけだ。ところがこの映画はそんなわたしにこう語りかけてきたのだ。「事実はひとつしかないのに真実は幾通りもあるものなのだよ。」

あの夏のめくるめく陽射しのさなかで、盗賊の背中に光る玉のような汗とおんなの身に起こった事件とが交じりあい、真実は藪の中、闇の中のおんなの笑みのように、子どものわたしには掴むことのできないものと映った。

おそらくそこからはじめるしかないのだろう。

「それにしてもへたくそな俳優だなあ」と、三船敏郎の演技をみてそのときのわたしは思ったものだ。しかしそうではなかったのだ。彼はただ「上手に演じること」ができなかっただけだ。言うまでもなくそんなことは俳優にとって重要なことではない。大切なのは消えることなのだ。そう、子どものわたしにはそれがみえなかった。消えているものがみえるはずがない。そういうことだ。
今もわたしにとって三船敏郎は日本で「一番」の俳優だ。モーツァルト的なあの身ぶりと声が好きなわたしはいまだに森田芳光監督のリメイク版「椿三十郎」をみる気持ちになれないでいる。森田さん、あなたのことは好きだけれどもうしばらくご勘弁。

わかりきったことから謎ははじまるのがつねだ。それしか道はないのだろうがひとはいつも大通りを歩きたがるものだ。なぜなら明るいショーウィンドウにはいつも「本物そっくりの真実」が並べられているから。いやもしかしたらそれは「本物の真実」なのかもしれない。それを確かめようとしてひとはそれに触れるだろうか。はたして「ほんとうのこと」はどんな手触りがするのだろうか。