予想屋と山師

シミュレ(simuler)とは、ありもしないことをまるであるかのように見せかけることであり、それゆえに「シミュレーション」という行為にはいつも胡散臭さがつきまとう。
花は今咲こうとしているのだ。種子は完結のときにしか手に出来ない。だから、今、まさに咲き初め、咲き乱れようとしている未知の花の、その種子を言い当てることは本当なら誰も出来ないはずだ。出来るのはシミュレートすることだけで、それはどうしても山師の賭けに似通ってしまう。
この疫学的未知の事件は、極めて実務的で具体的な対策と極めて投機的な対策の、振り子運動の最中でしか解決の糸口を探れないようだ。
これまでの感染症の数多くの事例をインプットして様々な係数を加えて行う数理的シミュレーションが前倒しして描く未来に「根拠」があるとしたら、それは「歴史」しかないだろう。過去の感染症との闘いの結果として残された貴重な情報という「歴史」、それで十分だ。が、それでもシミュレーションは胡散臭い。シミュレーションとは、「過去」という小道具を用いて帽子から「未来」を出してみせる手品なのだから仕方ない。
西浦氏の「40万人」というシミュレーションを、本人が「コレはさすがに恐怖や動揺を増幅させるだろう」と自覚していないわけはなく、それでも敢えて公表したのは「効果」が出るという二段構えのシミュレーションがあるからに違いない。
人というものは合理的に動かない。だから、合理性で自粛を促しても限界がある。それをどうやって補完するか。非合理な「感情」で動かすしかないだろう。「40万人」に過剰に反応する人は動くことと動かないことのどちらを選ぶだろうか?彼はそれも歴史(集積データ)からシミュレーションしているだろう。そして、この恐ろしい数字を冷静に受け止められる人は初めっからフォローしなくていい。彼らは最初から合理的に判断して動けるのだから。
全てが「済んだ」後に、彼の公表した数々のシミュレーションが「当たっていた」かどうか、そんなことはどうでもいい。彼もそんなことは気にしないだろう。結果が出れば、効果が出ればいいと思っているはずだ。(それが人を社会を救う。)
そう、誰もがシミュレーションを前にして誤るのは「本当にそうなるのか?」という問いを立ててしまうことだ。シミュレーションは図らずも人を予想屋にしてしまう。けれども、当たるか当たらないかは実にどうでもよいことであって、シミュレートすることでもたらされる効果こそがうろたえさ迷う私たちをこの疫学的事件の出口に導くのだということを彼は知っているだろう。感染を拡げない、その他にどんな目標があると言うのだろう。
つまり、戦術ではなく戦略なのだ。その意味で彼は政治的である。
コケたら海外に逃亡すればいい。鬼の首でも取ったかのように彼の「ハズレ」を喜ぶ者など尻目にして。

おそらくこの無駄話は彼を買いかぶりすぎているだろう。彼はこのドサクサに専門家と称して紛れこんだただの山師なのかもしれない。そして、それでいいと思う。