逃げていくということ

オーディオで音の話をすると「じゃあ生で聴けばいいだろ」という言葉が返ってきたりするが、もちろんそれは半分当たって半分外れている。で、半分外れているの話。
日本語が解れば誰でも「注文の多い料理店」を読めるが、「読める」ことと「愉しむ」ことは別物だ。
ある文学作品のその世界を自分の世界としてどう心に映し出すか、つまり言葉を通しての「愉しみ」や「体験」はそれぞれいろいろであるように、音楽でもその作品が好きであれば各自「この曲はこうでなくちゃ」があって、それはいわゆる「原音再生」とは全然関係ないし「生音」とも関係ない。「個人的体験」と言ってもいいかもしれない。そしてそれが「世界」への架け橋あるいは門となる、はず。

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モーツァルト交響曲第28番第2楽章の◯小節(ベーム指揮/ベルリンフィル)のあそこは楽譜ではどうか知らないけれど絶対スラーで聞こえてほしい、とか、COME TOGETHER のあそこのベースの音は聞こえないとまずい、とか、自分にとっての、その曲の「かたち」のようなものが、少なくとも好きな曲、何度も何度も聴いてきた曲では自然と出来上がっていて、それを可能な限りそのように再生したいというのがオーディオでの再生音へのこだわりなのだが、まぁそれがそもそも道楽なのだろう。
当たり前のことだけれど、どんな再生装置で再生しても、録音されている以上録音されている音が全部聞こえる、とは限らず、と言うか、録音されているのに(残念ながら)再生されていない音というのは実はかなりあって、再生装置のどこかを変えると突然「ぬっ」とそれが聞こえてきたりしてドキッ、ハッとする、それがアート体験ということだろうが、それは決して贅沢なことではなく日々を豊かにすることのひとつの方法なのだと思う。

※ そうやって「こうでなくちゃ」は変容していく。作品はつねに逃げていく!その後ろ姿が魅了するのだ。