砌の上の
又家持、砌の上のなでしこの花を見て作る歌一首
秋さらば見つつ思へと妹が植ゑし屋前のなでしこ咲きにけるかも
『万葉集』巻三・挽歌(岩波文庫)より
蛇足
死を覚悟して「秋に咲いたら思い偲んでください」という想いで亡き妻が植えた撫子が咲いていることだなぁ、と読むのがおそらく正しい解釈なのだろう。
けれどもわたしはそうは読まない。
妹が植ゑし屋前のなでしこ(が)
秋さらば見つつ思へと咲きにけるかも
と読みたい。
(ごく当たり前に元気だった)妻が植えた家の撫子が、秋になるとほらまるで「わたしですよ」と咲いているではないか
「秋さらば」を「秋になったら」と読むと前者の正しい解釈になるしかない。
死を覚悟して妻が植えた撫子が秋になり咲くのを感嘆しつつ偲び悲しみ詠むというのは心の琴線には触れるが、家持がことの他好きだった撫子の花になにかそぐわない気がする。それでは妻の思いも詠人の思いも強すぎるし、そのような悲しみに寄った歌になってしまう。
なのでわたしはあえて正統な解釈からはなれてこの歌を読みたいと思う。悲しみは野辺を広く澄み渡るように歌われていると。
また、「妹」は広い意味での「妻」でいいと思うが、わたしは性別を超えて「ひと」というふうに読んでみたい気もする。