ひとはそれを映画と呼ぶか?

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森田芳光の作品は「家族ゲーム」と「それから」だけをみていて、その頃の記憶では、テレビでなにかの作品を目にして「駄目だ」と思って以来、彼に対して食指が動かなくなっていたのだが、わたしの愛する映画「椿三十郎」のリメイクを黒澤明のシナリオを使って撮ったという話を聞き、ならば、と、今のところ森田版「椿三十郎」をみる気でいる。
むろん、それが黒澤を超えるとかなんとか、そんなことはどうでもいいことで、ただわたしは森田がそんな野蛮なことをやらかしたということのなかにこそ、映画を感じないでいられないのだ。その意味で、彼は紛れもなく「映画の人」足りうるだろう。「映画の人」とは体験し続ける人であり、愚かさと賢明さを往還する人のことだ。決して説明したり解説したり説得したり引きずりこんだり抱きかかえたりしない。放り出しうろたえ歌い撒き散らし悲しみ驕りけなし悩み怯え哄笑するのだ。
わたしたちは「用心棒」の爽やかさと「椿三十郎」の軽やかさに、たとえばゴダールの「パッション」のラストに突如として出くわす。その体験。ひとはその体験を映画と呼ぶか?時空もまたスクリーンなのだろうか?